福田屋の歴史

HISTORY

「近江国農商工便覧」長浜歴史博物館蔵
 

福田善三

「今津葦海村 小史扣(補)第2号」という本に福田屋についての記載があります。これは、福田屋のすぐ近くにある住吉神社の宮司であった森田吉則氏が、神社の寄進帳や古文書などを通じて、旧今津村の歴史を調べられたもので、街道筋の各番地毎に戸主の変遷が記載されています。
それによると福田屋を始めたのは福田善三という人です。「善三」名で今津で油屋を営み、明治に福田屋のある北浜の76番地に移ってきました。彼はまた古くから宿屋を営んでいたようで、明治4年の止宿人調に記載された15件の宿屋の中にすでに善三名が見られます。明治11年に福田善三と名乗りそれが福田屋の始まりになる と同本には書かれています。
福田屋解体で見つかった古い検札には紀元貳千五百三十五年亥という文字が書いてありました。これは建物を修復解体中に街道沿いの2階屋根裏で見つかったもので、数本の葦や扇骨と共に 縄で縛ってありました。皇紀2535年で亥の年ということは明治8年1875年に当たります。明治9年の旅宿鑑札料名簿には「福田善三」名が記録されています。現在の福田屋の建物が、今の形になったのもきっとその頃のことでしょう。

 




福田屋解体で見つかったの古い検札(上)
今津古地図(下)

今津の繁栄

今津は近世になって歴史の舞台に現れるようになり、それ以前は、すぐ南の「木津(こうつ)」が湖西の拠点としての港でした。「近江・若狭と湖の道(藤井讓治 2003)」によると、11世紀後半に若狭の気山津から、また12世紀後半には小浜から木津に官物が運ばれるようになり、栄えていました。

湖西の津の多くは琵琶湖から仕切られた内湖のすぐ側にあり、その中に船を入れて安全な港として機能していました。ところが木津に隣接するような内湖は今はありません。木津のすぐ南にある、高島市新旭水鳥観察センターの前は窪んだ湾になっていてます。沖には湾を塞ぐように浅いところがあり、水位の低い時は姿を見せて、コハクチョウ等の水鳥が休んでいたりします。地元の方からは「トノサマミチ(殿様道)」というのがあったんだと聞かされました。ここは、かつては内湖だったのです。しかし、15世紀初頭に琵琶湖の水位上昇により湖岸が沈降し、内湖でなくなってしまいました(水野 2004)。すぐ北に小さな内湖が連続してあった今津の方が港として条件が良くなり、今津が栄えていったものと考えられています。そして信長・秀吉の全国統一の中で、若狭からの荷は今津が取り扱う独占権が認められて、今津の繁栄につながりました。

琵琶湖周航の歌

長い歴史の中で福田屋は多くのエピソードを産んできました。琵琶湖周航の歌についての話もその一つです。高島市のページにある「琵琶湖周航の歌基礎知識」にはこのようなことが書いてあります

「今日ボートを漕ぎながらこんな詩を作った」と小口が琵琶湖周航2日目の今津の宿でクルー仲間に披露し、彼らは学生の間ではやっていた「ひつじぐさ」の曲に合わせて歌ったのが誕生した瞬間である月日まで特定できるのは当時のクルー仲間が「今津の宿で歌った」と証言していることと、小口が今津から京都の学友に出した葉書が現存し、その消印から。詞は翌年夏までに補完され6番まで完成した。今津での宿は「長濱屋」「福田屋」「丁子屋」のどこかだと研究者飯田忠義氏は書いている。

2017年はこの歌ができてから100周年ということで様々のイベントが持たれました。今津でも前知事の嘉田嘉子さんをゲストにした催しが有り、講演のあと参加者全員で復元途中の福田屋を見てまわりました。

移り変わり

ページ上部の絵図は「近江国農商工便覧」明治22(1889)年に出版されており往時の福田屋の姿を写しています 図の右に見られる「福田定」という名前は善三の娘で善三の跡を継ぎ、その後「福田はな」が継いだと記録にあります。その後明治43年からは「奥津こう」が、そして朽木村の「山本三五郎」に受け継がれていきます。 饗庭野に陸軍の演習場が開設されてからは陸軍高官の宿泊所として、また近隣の村の有力者の会食宿泊所として賑わい長く今津町の最高の料理旅館の地位を保っていました。終戦後は進駐してきた米軍の宿泊所にも利用されていました。琵琶湖はいいロケ地だったこともあって往年の映画スターたちの定宿でもありました。
でもやがて時が流れ、人の流れも変わっていきます。昭和も平成になるにつれ往時の顧客も次第に無くなっていきました。福田屋は長い眠りにつくこととなったのです。■